title by 天文学(https://yorugakuru.xyz/)
ぽちゃん、と湯が揺れる。肩先までしっかりと浸かりながら、絢瀬は背中を預けている男を見るために、頭をくんっ、と上げる。視線に気がついたらしいヴィンチェンツォは、どうしたの、と言いながら、絢瀬の細い腕を湯の中で撫でる。
揺れる水面をちら、と見て、絢瀬は良い香りだと思うのよ、と薄く微笑む。さっぱりした香りの入浴剤を入れたのは、彼女がたまたま立ちよったドラッグストアで見かけたそれに興味を引かれたからだ。薄く黄色い湯船に一緒に浸かりながら、ヴィンチェンツォは柑橘系の香りだけどなにを入れたの、と不思議そうに絢瀬を見おろしている。
「あら、見てなかったの? バスソルトの袋」
「見たさ。でも、それよりも君の顔のほうがかわいらしくて、文字が頭に入らなかったんだよ」
「あら、素敵な言葉ね? 外で聞いたら、恥ずかしくて引っぱたいちゃいそうだわ」
「ふふ、それだけは勘弁してほしいかな。いつになっても、私の恋人は恥ずかしがり屋だなあ」
「いつまでも初心を忘れていないことにしておいてちょうだい。なんだったかしら……ゆずとレモンって書いてあったわね、たしか」
「ああ、だから柑橘系の香りで、お湯の色も黄色なんだね」
リフレッシュできて、凄くいい香りだと思うよ。
ご満悦のヴィンチェンツォに、絢瀬はさっぱりする香りでいいわよね、と満足そうに微笑む。
普段はそれぞれ別々に入るふたりなのだが――同時に入るには浴槽は狭く、お湯があふれてもったいないのもあるのだが、こうしてたまに入浴剤をいれる時は一緒には居ることが多い。楽しい時間は共有したいというのが、ふたりの共通の認識だ。それはデートにも言えることであるし、こうして自宅で何かをするときにも言えることである。
「入浴剤をいれただけなのに、なんだか楽しい気分になるわね。ふしぎだわ」
「いつもと違う香りがするからじゃないかな。今日のアヤセはいつもよりも素敵に見えるよ」
「あら、うれしいわ」
「やっぱり、アヤセはこういう香りが似合うんだね」
「そう? 自分じゃ分からないのだけれど……あなたがそういうのなら、そうなんでしょうね」
「うん、とても似合うんだ。だから、こういう香りを纏うときは、私がそばにいるときだけにしてね」
私以外の男が君を素敵な女性だ、って思ったりしたら、嫉妬の炎で燃やしてしまいそうなんだ。
そう笑った声で言ったヴィンチェンツォに、絢瀬はそれは恐ろしいわね、とくすくす笑おうとして――見上げた彼の目が本気であることに気がつく。かんばせこそ微笑みの形をしているが、ピーコックグリーンの瞳は静かな炎がちらついている。
滅多に見せないヴィンチェンツォ・ガブリエーレ・フェッリーニの泥ついた感情を目の当たりにして、絢瀬は背筋にぞくぞくとした言い知れない感情が走るのを感じる。しかし、それが嫌なものだとは思えなかった。
冗談だよ、と笑った彼の目には、さきほどの緑色に燃えるヘドロのようにこびりつきそうな嫉妬の炎は見られない。それに少しばかりのさみしさを覚えながら、絢瀬はその炎で焼かれるのはわたしだったのかしら、と尋ねる。
「まさか! 相手の方だよ。私が君に危害を加えると思っているのかい?」
「思ってないわよ。でも、あなたになら焼かれてもいいかなって思っただけ」
「ふふ。私が嫉妬に狂ったのなら、君に見惚れた男を殺して、君をこの家に閉じ込めてしまうだろうね。誰にも見せないようにして、私だけをずっと見て貰うのさ」
「あら、とても怖いことを言うのね。わたしを自慢したいときはどうするのかしら」
「そうだなあ……カズヨシにでも着てもらおうか。彼なら、コニュージがいるから、気にすることもないもの」
「あら、義兄さんも大変ね。ただでさえ、姉さんで手一杯なのに、ヴィンスの相手までしなきゃいけないだなんて」
「ふふ、彼が大変な目に遭わないためにも、絢瀬にはこれからも素敵な香りはさせない方向でいかないとね?」
「そうね。義兄さんの胃のためにも、香水は断念の方向かしら」
せっかく素敵な香りをつけて、あなたを誘惑させたかったのだけども。
そう言った絢瀬に、ヴィンチェンツォはばしゃん、と手をお湯から引っ張り出すと、片手で顔を覆う。そのまま天を仰いだ彼に、絢瀬はどうしたの、と尋ねる。
「君が私を誘惑するのがいけないんだよ……」
「誘惑?」
「神は人に乗り越えられる誘惑しか与えない、っていうけれど、絶対に嘘だね。だって、私、今、凄く揺れ動いているんだよ」
この場で君がゆだってしまうまで押し倒してしまうか、ベッドまで我慢するかの瀬戸際なんだ。顔を片手で覆ったまま、そう告げるヴィンチェンツォの目は真剣そのもので、それでも瞳の奥に燃えさかる情交を結びたいという色が見えている。
隠れる気もないその色に、絢瀬はぞくぞくとした快感を覚えながら、口を開く。ここで倒れて看病されるのも素敵だけれど、どうせなら柔らかいベッドの上がいい、と。