絢瀬は腹に回った丸太のように太く、がっしりとした腕の重みで目が覚めた。同時に、窓を叩く雨の音が聞こえてきて、今日の天気は雨だったか、とうつらうつらとまだ半分眠っている頭で考える。
普段であれば、このあとすこぶるしっかりとした足取りで起きるところなのだけれども、昨晩は二人揃っての休みだったこともあって、どうしても――ヴィンチェンツォの甘え方が、どんどんと彼女が断りにくい甘え方になっているのが悪いというのは絢瀬の発言である――そういうことをしていたのだ。まだ下腹部を中心として、下半身がしょうしょうだるいように感じる絢瀬は、休みだからと目を閉じると寝返りをうつように、体を反転させる。
寝巻き越しにゆっくりと上下するヴィンチェンツォの分厚い胸元にすり寄ると、抱え込むように腕がのしかかってくる。ふんす、と絢瀬を抱え直したヴィンチェンツォは、彼女の黒髪に鼻先を埋める。そのまま深い寝息を立て始める彼に、絢瀬は小さく笑ってしまう。わたしは抱きまくらかしら、と小さくぼやきながら、絢瀬はくあ、と大きなあくびをひとつする。体温の高いヴィンチェンツォに釣られるように、絢瀬は目を閉じるのだった。
次に絢瀬が目を覚ましたのは、包み込む体温がすっかりなくなった頃だった。枕に少しばかりの残り香をおいていった恋人に、起こさないでくれたのか、とその優しさを感じる。これから暑くなる季節らしく、すっかりフローリングは冷たくない。素足のままフローリングの上を歩き、絢瀬は着替えをするためにクローゼットを開ける。衣替えをしたため、すっかり中の服は夏服が中心だ。太ももまでのストッキングを履くと、濃紺の膝丈で半袖のワンピースに、長袖のアイボリーカラーのボレロカーディガンを上から羽織る。
スリッパを履いて寝室をあとにする。ぱたぱたと軽い音を立てて廊下を歩き、リビングの扉を開ける。コーヒーの香りが薄く漂う部屋には、お目当ての巨体は見当たらない。あら、と絢瀬が不思議そうな顔をしながら部屋に入ると、ダイニングテーブルの上に一枚の裏返されたチラシの紙切れがあることに気がつく。視線を紙に落とせば、走り書きでパンを買ってきます、と書かれている。そういうことか、と絢瀬が紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てると、エスプレッソマシンの電源ボタンを押す。
新しく買い直したマグカップをおいてスタートボタンを押してから、テレビをつける。流行りの俳優とともに街頭で流行っている店の案内をしている、よくある情報番組から適当にチャンネルを切り替える。しばらくザッピングをしていたが、どうにも気に入った番組がなくてテレビの電源を落とす。
どうせだから、コーヒーを飲んだら掃除でもしようかしら、と絢瀬が考えていると同時にコーヒーが淹れ終わる。砂糖もミルクもいれることなく、彼女はゆっくりとホットコーヒーに口をつける。
寝室の掃除はこまごまとしていたが、最近は忙しさと疲れていると言い訳をしてフローリングワイパーですらかけていなかったはずだ。掃除機を掛ける前にさっとフローリングを磨いてしまおう、とコーヒーを半分ほど飲んで考える。少しぬるくなってきたコーヒーを一気に飲むと、絢瀬はマグカップに水をはってシンクにおいておく。
掃除道具をまとめておいてある物置に向かい、ドライのフローリングの掃除用シートをフローリングワイパーに装着する。廊下から寝室に向かってワイパーを動かす。扉を開けて、ベッド下にワイパーを潜らせる。前後左右にワイパーを動かしてから引き抜けば、予想以上にホコリがついていることに驚いてしまい、うわ、と思わず声が漏れる。
シートをひっくりかえして、絢瀬はクローゼットの下もワイパーでホコリを集めていく。寝室のホコリを集め終えると、そのままゲストルームに向かう。偶にしか使われないゲストルームのベッド下のホコリを集めると、なかなかの量だった。新しいシートに交換して、汚れたシートをゴミ箱に捨てる。新しいシートに交換してゲストルームを一周して、そのままヴィンチェンツォの部屋に向かおうとゲストルームをあとにすると、ヴィンチェンツォが玄関から入ってくる。その左肩に下がっているエコバッグはふくらんでおり、パン以外にも買い物をしてきたことがうかがえる。
「おかえりなさい。何を買ってきたのかしら」
「ただいま。バターロールとソーセージさ。アヤセのマンマがよく作ってくれた、あのホットドッグを作ろうと思ってね」
「あら、素敵な考えね。あのケチャップまみれの千切りキャベツ、好きなのよね」
「キャベツの味が全然しない量はどうかと思うけどね……アヤセは掃除中みたいだね」
「ええ。そういえば、最近さぼっていたなって思ったら、いてもたってもいられなくて」
「素敵なことだと思うよ。……ウェットシート、まだ乾燥してないといいんだけど……」
「あら、そんなにかけてなかったかしら」
「なかなか、ずっとさぼっていたような気がするんだ」
すぐに乾燥するようなシールの締め方をしてなかったとは思うのだけれどね。
思案顔のヴィンチェンツォに、絢瀬は乾燥していたら考えるわよ、とその大きな腕をぽん、と押すと、部屋はいるわよ、とひと声かけてヴィンチェンツォの仕事部屋に足を踏み入れるのだった。