秋冬と使ってきていたワインレッドのカバーを、初夏に向けてコットンのものに張り替えたのはつい昨日のことだ。二人がかりで生成色のコットン素材のそれに変えて、随分これも傷んできたね、と話していたのも昨日のことだ。
シーズンの終わりにでも新しいものに買い直そう――という話になったのだが、きっと忘れて来年もこのカバーを使って、同じ話をするのだろうと二人はなんとなく思っていた。
がちゃ、と扉をあけた絢瀬は目を瞬かせる。リビングの扉を開けて、真っ先に目に飛び込んできたものは、三人掛けのソファーに寝転がっている恋人の姿だったからだ。
生成色のカバーに包まれたソファーに寝転がっている彼は、肘置きに頭を乗せたまま仰向けに眠っている。
隣で読書をしていた絢瀬が、不意の尿意からトイレに立ち上がり、戻るまでのわずかな時間に寝入ってしまったのだろう。朝からジムで体を動かし、昼食で腹が膨れたところに、やわらかい暖かさの日差しに負けてしまったようだった。
厚い筋肉に覆われた大胸筋が、穏やかな寝息と共にゆっくりと上下している。横を向いた穏やかな寝顔に、絢瀬は顔にかかる前髪をそっとよけてやる。柔らかく太い髪は、何度よけても垂れ下がるものだから、絢瀬はどうしたものかと思案する。
はた、とダッカールクリップの存在を思い出す。朝起きたときに顔を洗うときぐらいしか使わないものだから、思いつくのが遅くなってしまったのだが、それを使えばヴィンチェンツォの垂れ下がって邪魔そうな前髪も固定できるだろう。
気がついたのならば、善は急げである。絢瀬はそっと足音を立てないよう気をつけながら、リビングをあとにする。洗面所の扉を開けると、洗面台の小物入れに置いてあるダッカールクリップを手に取る。黒いそれを一つ手にしたまま、絢瀬はリビングに戻る。そう、っとなるべく静かに扉をあけたのもあるが、なおもヴィンチェンツォはすやすやと眠りこけている。
「本当、よく寝ているわね……」
こうして眠っていると、彫りの深い顔立ちが静かな威圧感を放っているな、と絢瀬はまじまじと寝顔を見つめる。
分厚い筋肉に覆われた、見上げるほどに背の高い男だ。元々、骨も太いのもあるのだろうが、よく育てられたがっちりとした筋肉を持つ頑強な身体つきの彼は、穏やかな微笑みを常に浮かべていなければ、子どもから泣かれるような男である。今ではすっかり絢瀬の好みとなった低音の声だって、凄みがあると言われたら否定できない。
本人の気質とは意に反し、威圧する肉体を持つ恋人の枕元に膝をついて、絢瀬はダッカールクリップで前髪を固定する。普段からかきあげている前髪が、普段とは違う額の見せ方をしていることに不思議な気分になりながら、絢瀬は満足そうにソファーの足下に座るとタブレット端末のスリープを解除する。
もっぱら電子書籍を読むために利用しているタブレット端末を開いて、絢瀬は同僚の妋崎俊が教えてくれた投稿型小説サイトをブックマークから開く。オタク趣味でもある彼(それなりにSNSで人気のあるコスプレイヤーとは本人の発言であるが、真偽の程は定かではない。絢瀬もそこまで興味が無いのだ)に聞けば、プロアマチュア問わずにさまざまなものを教えてくれる。それらは玉石混交もいいところだが、そこから自分に合うものを探すのがまた楽しいのだ。最近、展開が気になる作品に出会えたというのもあり、感想をしたためたほどだ。
……閑話休題。
新着一覧を見ても、追いかけている作品の最新話はまだ投稿されておらず、少し寂しい気持ちを抱えながら絢瀬はブラウザーを閉じる。そんなこともあるだろう、そう自分に言い聞かせていると、とす、と後ろで何かが落ちる音がする。音の殺され方からして、ラグの上に落ちたのだろう。振り返ると、彼の腹の上に置かれていた右腕がラグの上に落ちていた。
「むしろ、よくソファーに体が収まっているわね……落ちたのが腕だけなんて……」
太ももをソファーの肘置きに乗せ、そこから先はラグの上に伸びているヴィンチェンツォを見ながら、絢瀬は感心した声を小さくあげる。
ギリギリ落ちていない妙なバランスの良さに感心しながら、絢瀬は落ちた彼の手にそうっと触れる。眠っているのもあってか、いつもよりも体温が高いように感じられる。手を握りながら、絢瀬はヴィンチェンツォの腹の上に大きな手を戻してやろうとする。
すると、それを防ぐように、ヴィンチェンツォは握る手に力を入れる。起こしてしまったか、と絢瀬が思っていると、そういうわけではなかったようで、ひとつゆるゆると息を吸ったヴィンチェンツォは深く寝息をたてている。穏やかに眠り続ける彼に、絢瀬はゆるりと相好を崩す。
絢瀬は片手でタブレット端末をスリープ状態にすると、ガラス製のローテーブルの上にことんと置く。手は繋いだままにしていたかったが、喉の渇きを覚えてしまっている。飲み物を取りに行こうと、繋いだままの右手を丁寧に剥がして起き上がる。
冷蔵庫からよく冷えた水出しの紅茶を取り出すとほとんど同時に、どす、とラグの上に重たいものが落ちる音がする。その音を確認のために見る必要すらなくて、絢瀬は思わずくすくすと笑いながら、一人分用意するつもりだったガラスのコップを二人分取り出すのだった。