È come il miele.

私とわたしの日々是好日

 ヴィンチェンツォはドライヤーで髪を乾かして終えると、ブラシで軽く整える。風量でもつれた髪をほどいてやると、ゆるくウェーブした髪がふわりといつものような髪型に戻る。垂れてくる前髪だけ、ヘアクリップで留めてやる。
 無地の黒の寝巻きに着替えた彼は、ペタペタとルームシューズを鳴らしてリビングに向かう。リビングの扉を開けて、おや、とヴィンチェンツォは不思議に思う。
 ふわり、香った匂いは嗅ぎ覚えがあるもので、この時間にはあまり嗅ぐことのないものだった。

(ハチミツ?)

 人工的な甘さを強調した香りに、シャンプーかトリートメントのものだろうと判断する。しかし、この家にはハチミツの香りのシャンプーもなければ、トリートメントも存在しない。絢瀬が愛用しているものは、薄く香る花束のような香りのものだ。言わずもがな、ヴィンチェンツォはシトラス系の香りのものだ。
 まだシャンプーもトリートメントも詰め替えはあったはずだし、新しいものは買っていないし、と悶々とする。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。水をグラスに注いで、匂いの元だろう絢瀬に近寄る。彼女に近寄るほどに香りは強くなる。
 水に口をつけながら、ヴィンチェンツォは絢瀬を片腕で抱き寄せる。

(甘い、なあ)

 やはり彼女から漂ってくる香りに、ヴィンチェンツォは喉を鳴らす。水で冷えた口を開いて、シャンプーを変えたのかと尋ねる。
 抱き寄せられてなお、表情ひとつ変えずにニュース番組を見ていた彼女は、彼の方に顔を向ける。肩までの髪をいじりながら、もらったのよ、と言う。

「試供品だけどね」
「そうだよね、まだシャンプーの替え、あるもんね」
「ええ。なんでも、いい匂いだっていうから」
「ああ、なるほどね。いい匂いっていうか、すごく再現度の高いハチミツだねえ。びっくりしたよ」
「本当にね。でも、これ、匂いが強すぎるわね。頭からハチミツ被ったみたいで、落ち着かないわ」
「たしかにね」

 その香りも嫌いじゃないけど、いつものブーケの香りがいい。
 そう告げると、洗い直そうかな、と彼女は苦笑する。洗いすぎは髪に良くないよ、とヴィンチェンツォは絢瀬の髪に鼻先を埋める。
 肺いっぱいに甘い匂いが広がる。嗅ぎ慣れないハチミツの香りに上書きされた彼女の薄い体臭を、少し残念に思う。やはり嗅ぎ慣れた香りの方が落ち着く。
 それと同時に、ヴィンチェンツォは腰がずくりと重くなるのを感じる。慣れないものに興奮している自分を、まあまだ若い方だしな、と苦笑する。
 すんすん、と匂いを嗅いでいると、くすくす笑う声が聞こえてくる。
 かぷ、と軽く絢瀬のほっそりした首筋に噛み付く。急所を噛まれたことによる、生理的な震えと、触れる息がくすぐったいのか、ふふ、と笑いが漏れる。

「あら、おいしく食べられてしまうのかしら」
「もちろん。かけらも残したりしないさ」
「怖いわね。わたしの恋人はオオカミだったのかしら」
「私はいつだってかわいいテディベアのつもりさ」
「テディベアにしては大きすぎるわ」

 くすくすと笑う彼女に、テディベアは嫌いかい、と尋ねる。テディベアは好きよ、と帰ってきた言葉には続きがあった。

「ワイルドで──そうね、まるで野獣みたいなテディベアがお気に入りなの」
「へえ。それは珍しいテディベアだね」
「本当、珍しいのよ。手に入れるの、大変だったのよ?」

 ヴィンチェンツォの顎下をくすぐるように撫でる絢瀬。猫じゃないよ、と言いながらも気持ちよさそうに彼は目を閉じる。
 しばらくくすぐっていた絢瀬は、満足したらしく顎から手を離す。そのまま顎から頬にかけて手を滑らせる。もみあげのあたりに触れたところで、絢瀬は少し身を乗り出す。
 触れるだけの軽い口付け。ついばむような音だけを残して、唇は離れていく。
 絢瀬はヴィンチェンツォのエメラルドの目を優しく見る。

「優しくしてくれる?」
「もちろん。何一つ、痛い思いなんてさせないよ」
「紳士的ね」
「君に対して、私が紳士でなかったことがあったかな」
「なかったわね」

 ソファーから立ち上がり、ヴィンチェンツォはくすくす笑っている絢瀬に手を差し伸べる。その手を取り、立ち上がった絢瀬の肩を抱いて、二人は寝室へ歩いていった。