噛み跡にキスをして

私とわたしの日々是好日

 じい、っと絢瀬は全身鏡を見ていた。そこには紺色のランジェリーを身にまとった彼女の全身が、蛍光灯の下はっきりと写っている。
 別に今日のブラジャーとショーツはセットのデザインじゃないから可愛くないとか、そういうことを気にしているわけではない。似たような色のものを着ているが、デザインは違う。ブラジャーにはクラシカルな白いレースが縁取られているが、ショーツはシンプルな紺色のビキニタイプで、目立った柄や縁取りはない。
 問題はそこではない。ランジェリーがセクシーかどうかは興味がなく、機能的であり、次点でヴィンチェンツォの興味がひければそれでいいのだ。
 じい、っと鏡を見ては、絢瀬は大きなため息と一緒に言葉を漏らす。

「あー……残ってるわね……」

 くっきりしたのも。
 そう呟くと、もう一度ため息を吐く。鏡を見ているのは、彼女の体に残る歯形が原因だった。
 もちろん、それは彼女の歯形ではない。うっすら残るものから、はっきりと残っているもの。噛まれた時は痛かったのではないか、と思うほどのものまで様々だ。
 それらは昨晩のヴィンチェンツォとの行為の残り香だ。理性的な彼の箍が外れ、本能が顔を覗かせる時、しばし絢瀬の体に噛み付いてくるのだ。
 そのこと自体は絢瀬は嫌ってはいない。むしろ、ベッドの上では紳士的すぎるほど優しい愛を降り注いでくれる彼に対して、時折不満すらあるほどだ。
 決して優しい愛が嫌いではない。痛みは快楽と繋がっていない絢瀬にとって、優しさで満ちた行為はうれしいほどだ。それでも、たまには彼から与えられる愛の中に、剥き出しの本能を見たくなってしまうのだ。

「とはいえ、ちょっとこれは……どうしたものかしらね……」

 暖かくなってきた今日この頃、夏ほどではないとはいえ、肌の露出は増えてくる。
 そんな時に、首に残った噛み跡、そして鬱血痕。どう見ても盛んなカップルだ。そう思われることそのものは絢瀬は嫌ではないが、恥ずかしいと思ってしまう。無意識に、悪意なき誰かに揶揄られるのでは、と考えてしまうのだ。
 真新しいキスマークを隠すなら絆創膏、という手段もあるが、あからさまに首についたキスマークを隠していますといった風体になるのは目に見えている。そもそも、絆創膏では噛み跡までは隠しきれない。
 やはりハイネックか、と絢瀬はカーテンの開けられた窓を見る。それなりの高層階から見える空は、雲ひとつない青空で、今日も暖かくなることを告げている。
 まだハイネックでも許される季節ではあるが、と考えているうちに時間は経っていく。今日も仕事があるのだから、のんびりとしていられない。

「まあ……いいか。気分転換ってことにしておきましょう」

 クローゼットからインナーを引っ張り出して着る。そのままハイネックを取り出していると、アヤセ、と声がかけられる。
 この家で、ましてや絢瀬の知っている人物の中で、そのイントネーションで話しかけてくる人物は一人しかいない。ヴィンチェンツォだ。
 声のした方を振り返ると、エプロンを身につけたヴィンチェンツォが寝室のドアを開けて立っていた。その顔には、やらかした、とでかでかと書かれていた。

「あー……アヤセ。その……」
「いいわよ、気にしてない」
「ごめんね、たくさん噛んじゃった」
「いいったら。それだけ、わたしがおいしく見えたんでしょう?」

 あなたに噛みたくなるほど魅力的だ、って思われるの、嬉しいもの。
 ふわりと笑った彼女に、愛しさを覚えながらも、ギリギリ季節的に許されるハイネックしか選べない状態にしたことに、彼は罪悪感を覚える。
 ごはんよね、と絢瀬が気を逸らすように声をかけると、そうだよ、とヴィンチェンツォは答える。彼女は本当に気にしていないのだから、自分が気にしすぎていてはいけない。彼は気を取り直して、明るい声を意識して出す。

「今日はレーズンバターロールだよ」
「あら、おいしそう」
「レーズンだから別にいいかな、って温めてないんだけど、別にいいよね?」
「ええ」
「……君、適当に返してない?」
「返してないわよ」

 ハイネックに腕を通した絢瀬は、そのまま着ようとして、感じた視線のまま顔を上げようとする。腕をクロスしたまま、着ようとした姿勢のままでいる彼女は、近づいてきたヴィンチェンツォにおや、と思う。普段ならば、呼びに来たならそのまま帰るのに、そう思っていると、首筋に生温かい感触を覚える。
 舐められた、そう理解すると同時にピリリ、とした痛みを覚える。

「よし」
「よし、って……あなたね……」
「大丈夫だよ、それなら見えないよ」

 にこにこと笑ったヴィンチェンツォは、絢瀬が着ようとしている服を指さす。たしかにハイネックなら、新しく付けられたばかりの噛み跡も隠すことはできるだろう。
 そういうことではないのだが、と思いながら、絢瀬は全身鏡をチラと見る。やはり先程走った軽い痛みは噛まれた痛みだった。夜中に運動した時の噛み跡と、まるで対称になるよう付けられたそれに苦笑してしまう。

「ずいぶんと独占欲が強いのね? 嫉妬深い男は嫌われるわよ?」
「そうかな? アヤセも、私のこと嫌いになるかい?」
「どうかしら。でも、」

 マーキングされるの、嫌いじゃないわ。
 うっそりと笑った彼女は、これ以上付けられてはたまらない、と言わんばかりに服を着る。首筋も含めて、素肌が見えなくなったことに、ヴィンチェンツォは勿体なさを覚えながらも、今日は平日だから仕方ないと諦める。
 先にリビングに行っているよ。そう告げて、彼は寝室を後にする。ペタペタ、と遠ざかる足音を聞きながら、絢瀬は顔が赤くなるのを感じる。

「本当……独占欲強いんだから……」

 真新しい噛み跡をハイネック越しに触る。コットン生地しか感じるはずがないのに、どこか彼の熱を感じるのはなぜだろうか。
 絢瀬はその疑問に蓋をするかのように、ストッキングにすらりと細い脚を通した。