かつての地球に存在したというバレンタイン。それはなんだかんだと続いている。人間というものは、面白いと感じた文化を受け入れていくもので、継承していくものだ。バレンタインは特に日本と呼ばれる地域でひどく発展をした文化であるらしいが、ようは意中の相手に贈り物をするということに変わりはないのだ。それが商業主義に乗ったチョコレートの販促だったか、そうでなかったかの違いぐらいだ。
今日の日付は地球で言えば二月十四日。バレンタインの日だな、とのんびり考えながら、サロセイルは賑やかな大通りだった廃墟を歩いて行く。手元には、持ち込んだ大袋のチョコレート菓子を持って、だ。
彼が歩いているのは大通りだった廃墟――そう、廃墟だ。チョコレート菓子を持ち込んで歩くような場所ではない。逆立ちしてもありえない。人の形状をしたまま、セロファンで一つずつ包装されたチョコレート菓子を剥いで、口に運ぶ。ミルクチョコレートの柔らかい甘さが口の中でとろけて、笑顔になってしまう。
「こう、大袋の菓子類は企業努力を感じられて、素晴らしいね。技術の粋を凝らしたチョコレート菓子も素晴らしいが、企業の努力の粋を極めた工業製品も素晴らしいよ」
そう思わないかい。そう、話すサロセイルは足下に転がる青年を見下ろす。煤にまみれて動かない彼の胴体の下からは大量の血痕が黒くこびりついている。左側の足は膝から下がごっそりと消失しており、とてもじゃないが歩ける状態ではないし、大地に吸い込まれた血の量と、それが乾ききっていることを考えれば、この青年が生きている可能性は恐ろしく低い。むしろ、生きていないだろう可能性の方が大きい。
そんなことなどどうでもよくて、サロセイルは時折遠くから聞こえる砲撃の音をバックミュージックに荒れ果てた町を歩いて行く。乾いて、時々ぱりぱりになった血の跡や、溶け落ちてガラスになった大地を歩きながら、そろそろ歩き疲れたな、とぼやきながらサロセイルは荒れ果てた廃墟を見渡す。もとは賑やかな大通りだったかもしれない場所ではあるのだが、いかんせんカフェやレストランは軒並み廃業している。それはそうである。
せめて椅子の一脚でも転がっていると楽なんだけどなあ、休めるんだけどなあ、とぼやきながら、サロセイルは適当なショップだったであろう建物にはいる。大抵の椅子も机も壊されていて、到底使える状態ではなかったのだが、四件目のショップと思わしきところにまだ無事だった椅子が転がっていた。
これ幸いとサロセイルは椅子の表面を上着で拭けば、ばらばらざらざらとガラスだったり砂だったり、建材の破片だったりが落ちていく。少なくとも、座面に目に見える範囲ではなにもない状態にしてから腰を下ろすと、がたん、と大きな音が響く。大きな音がしたのは、サロセイルの背後からだった。
「うん? 誰かいるのかい」
椅子に足を組んで座ったサロセイルは、組んだ足に片肘を載せて手の上に顎を載せる。音がした方をじ、っと見つめれば、沈黙に耐えきれなかったのか、ごまかすことができないと悟ったのか、足音を少し立ててカウンターとおぼしき場所から人が出てくる。
そこにいたのは、中年の女性だった。汚れた服を着た彼女は、両手で抱えるように小銃を持っており、背負ったリュックサックは底の方が膨らんでいる。ばらばらのぼさぼさで、皮脂で固まったのか、汚れた髪を振り乱した彼女は、恐怖におびえた目の中でサロセイルが抱えているものを見て目を輝かせる。その目の輝きも一瞬で、小銃を抱えながら、吼える。それをよこせ、というような内容だったかもしれない。いかんせん、ろくに水も飲めていないらしく、叫び声はがらがらに割れて、かすれていたものだから距離があったサロセイルからすれば、小銃を抱えた痩せっぽちの女が突撃したぐらいにしか思えなかったのだけれども。
撃鉄を引いて銃口から何度も弾丸が飛び出してくる。空の薬莢がばらばらと排出されて、弾丸たちは一直線にサロセイルにぶつかる――そして、彼を黄泉路へ導くはずだったのだが。
「……!?」
「おっと。これは熱烈なバレンタインチョコレートだ。少々金属くさいのがあまり好みではないが」
たしかに人間でいうところの心臓や脳天を打ち抜かれたサロセイルだったが、打ち抜かれたところから青っぽい液体を少しだけ拭きだしただけで、その傷口はすぐに消えてしまっている。血と思われる液体も、わずかばかりにしか出ていないものだから、拭ってしまえばいつものサロセイル・エカ=メルのできあがりだ。
おびえたように女は尻餅をついて、立ち上がり、女に近寄ってくるサロセイルを見上げる。一歩、一歩と近寄る彼は、すらりと美しい顔をうっすらと笑顔の形にゆがませて、女のもとに近寄ると腰を下ろす。
「今日はバレンタインだったはずだからね」
「……は?」
「こんな日に人を殺すのもつまらない話だ。見逃してあげよう」
「なにを……」
「ついでだ。私は甘いものがそれほど得意ではないからね」
そういうと、サロセイルは大袋の中に手を入れると、いくつかの個包装のチョコレート菓子を握ってとりだす。はい、と崩れ落ちている女の上にチョコレート菓子をばらばら、と落とす彼に、女は唖然とした顔のままだ。それもそうだろう。殺そうとした女に何をしているのだ、という考えがはっきりと浮かんでいる。
聖人らしいことをしてしまったなあ、とけらけら笑いながら、サロセイルは休むなら別の場所を探すとするかなあ、とのんびりつぶやきながら建物を後にする。女はあまりに、なにもなかったように去って行く男に呆然と座り込んで――そして事態が飲み込めてから小銃を片手に立ち上がった頃には、そこにはサロセイルの影ひとつ残っていなかった。ただ、たしかに彼がいた痕跡として、青い液体がわずかに付着した椅子と、床、そして五個ほど転がっているセロファンに包まれたチョコレート菓子があった。